原作はリアルタイムで3巻まで既読です。以降は積んでます。
以下、旧ツイッターでの実況のまとめと翌日感じたことなど。
【実況のまとめ】
アニメでは、焼塩さん周りのエピソードが際立って滋味深く、運動ガールだけれど見た目に反して聡明なところ(童話のエピソードとか「代わりに言ってあげる」とかなかなかできない話ですよ)が綺麗に演出されており、一気に好きになりました。
逆に、原作の1~3巻が映像化されたアニメを通しで観ると、後半は八奈見さんがエピソード的には割と動いていないなというか、いつもムシャムシャっとメシを食ってる隣の杏菜さんになってた感はありましたね(「叱ってもらおうなんて」とか良い台詞もあったけどね)。最終話の12話では八奈見さんの動きの少なさがスカッと解消されて、完璧なエピローグでした。
それはそれとして、原作3巻って私は「ヘンな話だな~」って思ったのを覚えていて、アニメでも同じこと感じたんですが、小鞠さんが部長にならない(ことを作者は選んでそう書いた)のは相当不思議な感じがしてます。4巻以降を読めばわかるかもなんですが、3巻時点では不思議な感覚を抱きました(アニメに12話がなかったらこうも気持ち良く観終えていなかった気もします)。
主題歌がもっさ(ネクライトーキー)だからかもしれないんですが、『負けヒロインが多すぎる!』ってかなり「だけじゃないBABY」ですね。ネクライトーキーをそれなりに真面目に聴いてきた私の仮説ですが、作者の雨森たきびはあのバンド好きというか、小説のタペストリーの糸の一本として使ってますよ(似た言葉遣いが時たま登場する)。
【翌日の呻き】
『マケイン』のみなさんのことを思い出しながらネクライトーキーを聴きながら仕事をしていたら、涙が止まらない……(電車の中で泣いていた)。
ネクライトーキーは私の会社員生活が始まった数年後にデビューしたバンドで、つまり私の学生時代に被っていないってことなのだけれど、もしも多感な中高生時代に触れていたら今よりもグッッッと来ていたと思う。
私より若い人が私より若い人の悩みを歌う様子には、曲によっては普遍的な良さを感じることもあるけれど、どうしてもどこか遠く、どこか他人事になってしまう。三十路が「十代の想像上の散弾銃 案外悪くはないさ 絶対最終回はぼくらのものだ いかんともしがたいから」(ネクライトーキーの「レイニーレイニー」より)とか聞かされても、他人事なんですよ……。「絶対最終回はぼくらのものだ」の無根拠な前向きさって、そういう年代の時にしか共感できないですよ。
けれども、もしも(学生の)私よりも彼らが年上だったりしたら、その悩みは一種の憧れに聞こえるでしょう。
おれも自分ごととして若いバンドの実存に関する悩みに共感してえよ……。
でも、実は「自分ごととして若いバンドの実存に関する悩みに共感する」ことができないという悩みを解決するソリューションが存在します。それは、小説を書き、若いバンドに共感可能な登場人物について死ぬほど深く考えることです……(自ずと「イメソン」を決めざるを得なくなってくるので)(今回の小説のイメソンはtofubeatsで「RIVER」です)。
(おわり)