アニメの「聖地」の一つがなくなるらしい。

「聖地巡礼」の記事を書いておきながら、だけれど、私は聖地がなくなることに倒錯した悦びを感じています。アニメファンの界隈からは悲しみの声が上がっておりますが、私はむしろ、ファンだからこそ悦びを感じているのです。

私にとって、アニメ(や、小説や、要するに娯楽的なフィクション)って、私を「いまこの瞬間」「いまこの場所」ではないどこか別の宇宙へと誘ってくれる「宇宙船」のようなものであって欲しいんですよね。あるいは、そういう別の時空間を閉じこめてくれる「タイムカプセル」のような。

確かに、フィクションの舞台が「いまこの瞬間」「いまこの場所」とリンクしているからこそ、切実さ、熱と言い換えてもいいですけれど、そういうものをフィクションが伴ってくれる。その切実さが別の宇宙へと私を連れて行ってくれる。けれども、そうしてリンクし続けていると、熱が時間の経過に従って拡散してしまうように思うんですよね。その拡散は取り返しが付かない。フィクションが有していたエネルギーが決定的に損なわれてしまう。

ゆえに(と接続するのが正しいのかはわからないけれども)、「いまこの瞬間」「いまこの場所」とのリンクが切断され、熱の行き場がなくなり、エネルギーがフィクションの中に閉じこめられ、損なわれることがなくなる。そうして宇宙船、タイムカプセル、そういうものが完成する。

「いまこの瞬間」が「あの瞬間」、「いまこの場所」が「あの場所」へと、私と切り離された世界へと離陸する――そのための契機として「聖地」が消失することに悦びを感じるのですよね。