『あそびのかんけい』(葵せきな)を読んで、感動しましたので、フレッシュなうちにメモや思いつきを書き残しておきます。数時間後には4巻も出ることだしね。既読前提で、殴り書き的に残します。

自己紹介的には、私は2010年代前半の大学時代にドイツ産・アメリカ産ボドゲをよく遊び、2020年代に入ってからはあまり、という人物で、しかしながらそういうサークルには属していなかったために歴史的名作はあまり通っていない、という人物です。とは言え『あそびのかんけい』に登場するのは『ラブレター』(2014)以外はやってるかな。大好きですよ。『世界の七不思議』(2010)。『ラブレター』だけは遊んでないボドゲのオタクって、「ボドゲのオタク」って感じですね。

さて、ドイツ・ボードゲーム・ルネッサンスの興りを決定的にしたボードゲームの金字塔に『カタンの開拓者たち』(1995)がある。プレイヤーたちは無人島の開拓者となり、サイコロを振り、サイコロの出目に応じて様々な資源を手に入れ、あるいは、これこそが『カタンの開拓者たち』の特徴なのだが、プレイヤー同士で交渉して資源を融通し合うことができる。交渉においては、制限はなく、自然言語を用いた自由な交渉が特徴である。

私見だが、『カタンの開拓者たち』に始まったドイツ・ボードゲーム・ルネッサンスの歴史とは、自然言語を用いた自由な交渉を如何に「不自由」にせしめるか、そしてその不自由なコミュニケーションを如何にプレイヤーに喜んで受け容れてもらうかの歴史だったのではないかと考える。

例えば『ボーナンザ』(1997)は、『カタンの開拓者たち』と同様に自然言語を用いた自由な交渉だが、交渉を始めるプレイヤーは手番プレイヤーに限っている。あるいは植民地の資源を巡るボードゲームである『プエルトリコ』(2002)では、資源の交換に関する交渉というアクション自体が廃されている。また『電力会社』(2004)では、資源の価格は全プレイヤー共通の需給で決定される。『HANABI』(2010)は、交渉から自然言語を取り除いて不自由を強いる。エトセトラエトセトラ……。私よりもっと詳しい人がどこかでもっと正確に丁寧に書いているだろう。

これらのゲームは、『カタンの開拓者たち』にあったプレイヤー間の自然言語を用いた自由な交渉を、新しいゲームシステムによって制限し、コミュニケーションを不自由にした。ポイントは、いずれのゲームも、プレイヤーは不自由なコミュニケーションを喜んで受け容れるという点である。その巧みさ故に、先に挙げたゲームは名作として歴史に名が残っているのである。

ところで、私は、『カタンの開拓者たち』をあまり好きではない。自然言語を用いた自由な交渉において、プレイヤーの経験値の差が如実に表れるからだ。交換には隠れた適性レートがある、状況に応じた交渉が要される、というかダウンタイム長過ぎね?

先に挙げたゲームでは、自然言語を用いた自由な交渉は排されている。しかし、盤上の不自由なコミュニケーションはむしろ言葉よりも多くを語ると感じる。プレイヤーは、限られた情報から、限られた手段で、他のプレイヤーの意図や思惑を汲み取って勝利を目指すことになる。

たぶん、それが「あそび」なのだろう。不自由、禁止を喜ぶ場面なんて、他にはない。私たちは本来的に自由だから。しかし、ことボードゲーム、こと「あそび」においては、「してはいけません」こそがキモだったりする。

ようやく『あそびのかんけい』。

これから『あそびのかんけい』の3巻の話をします。します。

「あそびでは、プレイヤーは不自由なコミュニケーションを喜んで受け容れるということ」についてもっと語りたい。

これが如実に表れたのが3巻の「封じ手」。提案者の月乃ちゃん、当事者のバンジョーはさておき、みふるちゃんは本来はそんな不自由を受け容れる義務も義理もないんだ。しかし、結果的に受け容れる。また、みふるちゃんの(本来の)自由闊達なコミュニケーションはマダミスのルールによってオーバーライドされ、制限される。不自由になる。それを喜んで受け容れ、むしろ、不自由なコミュニケーションに別のメッセージを込めている。まあ、届かなかったのだが。

みふるかちゃんはその不自由さについて的を射たことを述べた。「意地」と。結果的に、そのラウンドの「あそび」において彼女自身が負けることになろうが、というか、負けたのだが、あの場の全員にとって不自由さを喜んで受け容れ、不自由さに従うことは「意地」なのである。彼彼女らがプレイするゲーム(=コミュニケーション)には、守るべきルールがあり、ルールの遵守によってのみ場に居ることが許可され、仮に自分自身が敗色濃厚だったとしてもそのルールを遵守する。

ルールを破って盤をひっくり返してしまったら、もうゲームに呼んでもらえない。

確かにみふるちゃんはこのラウンドでは負けた。しかし、ルールを守る限りにおいて、不自由なコミュニケーションを喜んで受け容れる限りにおいて、みふるちゃんはまだゲームを続けることができる。

なぜかって? 彼彼女らのコミュニケーションは彼彼女らのみんながあそびたいゲームで、まだ終わらないからなんですよ。彼彼女らのゲームはこれからも続く。必ず続く。

不自由なコミュニケーションの果てを見せてくれ。

(おわり)12


  1. ロジェ・カイヨワを引きつつカッケ~~~論考とか書きたかったのだが俺には無理だ。誰か頼む。 ↩︎

  2. おれがなぜこんなに「不自由になることを、プレイヤーは喜んで受け容れる」に拘っているのかというと、おれが書きたい小説がまさにそういう小説だからですね。自由闊達であり得るコミュニケーションが特定の様式、特定の場面、特定の役割によって不自由に限定されて、そこで初めて到達できる別のコミュケーションのありようがあると信じている。『あそびのかんけい』はそういう話をずっとやってるので感動しているんですよ。 ↩︎